昭和テレビ大全集 ぢゃない

昭和のテレビに関する四方山話

「やめられない とまらない」 かっぱえびせん名コピー誕生の知られざる話 証言編(1)

はじめに

 かなり間が空きましたが、その間も日高欽治氏は様々な方策でカルビーと折衝を精力的に続けていたものの、遂に先方からの誠意有る回答を得る事が出来ませんでした。

 ここに至り、氏は、当時を知る大広関係者等の陳述書の公開を決断されました。

 この事は、このブログを開設した時から当方が助言していたのですが(そもそも、そうした本来なら内々の資料を公開するために、わざわざ別ブログを開設したわけです)、当時の日高さんは、カルビーには恩義が有るとして、なるべく穏便な形でやりたいと、受け入れませんでした。

 

 それから一年余。日高氏の決断を受けまして、ここに、本来はカルビー側だけに提示されていた内々の証言を公開して参ります。

 確かに、カルビーが要求するような物的証拠ではないかもしれませんが、これだけの社会的信用の有る方々が言っている証言です。

 皆様方に於かれましては、よく内容を吟味して戴きますようお願い申し上げます。

 

 日高欽治氏の大広在籍証明書の写し

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関安三郎氏の陳述書より

かっぱえびせんのコマーシャル誕生の経緯について

1 私の当時の役割り

 私は昭和38年10月、株式会社大広に嘱託で入社しました。録音技術を持っていましたので、東京支社の放送制作部のオーディオに関する仕事を、先輩社員の柳本賢一さんと二人で引き受けていました。
 放送制作部員のつくるCMの録音の一切、スタジオ管理、外部の録音スタジオの折衝など、音に関することの一切でした。


 私が㈱大広に入杜したとき東京支社は銀座7丁目にありました。そして録音スタジオが銀座3丁目の松屋裏にありました。
 銀座4丁目の社屋は手狭で、私と柳本さんは放送制作部の部屋にデスクを置いてもらえず、別館の録音スタジオの中がデスクのようなものでした。
 気分としては録音スタジオのスタッフみたいで、大広の社員になれたという誇らしい気分ではありませんでした。
 それが翌年の2月か3月ころだったと思いますが、有楽町のニュートウキョーの裏に、ラクチョウビルという新築のビルに東京支社が移転することになり、放送制作部の都屋も広くなったので、私も柳本さんもデスクを与えられました。
 仕事場はいつも銀座の録音スタジオですが、自分のデスクが放送制作部の中にあることはたいへんにうれしいものでした。


 移転後しぱらくして落ち着いたころ、日高さんがカルビーの”かっぱえびせん”のCMの絵コンテを持ってきました。それが録音スタジオの中でなく、放送制作部の新しい自分のデスクでもらったので、妙に印象に残っています。
 そのとき私は絵コンテを見て、「なんだ、変なコピー」とけなしました。
 当時のコマーシャルは、映像をナレーションで解説する手法が多く、日高さんの持ってきた絵コンテの一コマ一コマに感覚的に、「手がでる、手がでる、かっぱえびせん。やめられない、とまらない、かっぱえびせん」と書いてあっただけだったので、ナレーション風にして読んだら、何か違和感を感じて、それで「なんだ、変なコピー」と言ってけなしたのだと思います。


 日高さんは当時NHKで写譜のアルバイトをしていた友人の小川よしあきさんに作曲を依頼して、あの有名なCMソングができたのです。わたしも「変なコピー」とけなしましたが、録音スタジオで小川よしあきさんが指揮をとって音楽を鳴らしたときに、変なコピーどころではないと思い、目からうろこが落ちる思いでした。
 それが今でもカルビーのCMで使われている「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」のメロデーでした。

 


2 解せない頑なな法務部の姿勢?

  2010年6月、日高さんから久しぷりに電話がかかってきて「かっぱえびせんのコマーシャルをつくったのはボクだよねえ、覚えてるかい」と言われたので、前述のような話をしました。

 2~3日して二人でカルビーのお客様相談室長のA氏のところへ行って、日高さんが間違いなくかっぱえびせんのコマーシャルをつくったことを話しました。

 A氏は、「お話はまちがいないと思いますが、なにか物証になるようなものはありませんか」と言われましたが、なにしろ40年以上の前のことですからまずそんなものは無いと思いました。
 そこで、ふと同僚の保泉芳伸君に聞いてみようと思い電話をしたら「何を言っているの、あのコマーシャルは日高さんが忙しくて自分でつくれないので、ポクが絵コンテをもらって助っ人でつくったんだよ」という返事がもどってきました。
 私は彼がつくったことをすっかり忘れていました。

 

 後日、私と日高さんと保泉君の三人で会い、当時の話を保泉君に聞きましたら、じつによく当時のことを覚えていて、私もずいぶん思い出を引き出されました。
 彼の話ならA氏も信頼してくれるかも知れないと、また三人でA氏のところへ行って保泉君に話してもらいました。
 その話に、日高さんがかっぱえびせんのコマーシャルを最初につくった人だとA氏は確信を持ったようで、6月29日に社員と会って話す機会をつくってくれました。
 社長も私たちの話を信頼してくれて、日高さんがあの有名な「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」の原作者であることを認めてくれました。
 その後、そのことをカルビーの社内報に載せるからと、日高さんは顔写真を取ってもらって喜んでいました。

 

 しかし一ヶ月以上経っても何の連絡がないことに日高さんはしびれを切らして、宣伝部長のH氏に連絡したら、「会社内の関係部署と協議の結果、日高さんの要望にはお応えできません」という返事がきました。
 「関係部署との協議」ということに不審をいだいた保泉君がA氏に尋ねたら、「日高さんが、やめられない、とまらない、かっぱえびせんの原作者であることを社内報に載せてはならないと、法務部長が止めてしまった」とのことのようでした。
 私はその話を闘いて、「ああっ、アストロミュージックとの関係で法務都は止めたな」と思いました。

 

 と言うのは、大広がカルビーのコマーシャルを昭和39年にテレビで流したのは半年くらいで、あとは電通に扱いを持っていかれて日高さんのつくったCFは使えなくなって電通は新しいCFをつくり、放映していました。
 ただそのときに「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」の部分だけは、私たちのつくったCMソングをそのまま使っていました。
 当時の私たちの業界の風土としては、CMソングは制作費を出したスポンサーが自由に使えるもので、著作権が広告代理店やCMの制作会社や個人にあるなどといったことを考える人もいなく、スポンサーがどう使おうが勝手という考えがまかり通っていました。

 その考えに異を唱えたのが、作曲家の小林亜星氏で、日本著作権協会の理事としてはたらき、CMソングにも著作権があると認めさせた旗頭です。

 

 その小林亜星氏が代表を務める「アストロミュージック」でつくられたCMソングを、現在でも使っている企業から、使用料を支払ってもらっていると聞いていました。代表的なのは日立の「この樹なんの樹ふしぎな樹」というイメージソングです。

 私は契約内容は知りませんが、法務部はその事があるから日高さんを原作者だと認められないと言いだしたのだと思いました。

 昭和40年ころ電通で作ったのは、日高さんが大広で作った後で、15秒のCMから30秒のCMに作りかえた時のもので、そのCMの著作権を認めたから、日高さんの著作権が消滅することではないと思うのに、カルビーの法務部では何を考えているのだろうと、不審に思いました。

 その後、何度かA氏やH氏に日高さんの事を社内報に載せてくれるように、保泉君と話し合いに行きましたが、法務部が認めないという事で、話が前に進みませんでした。

 

(中略)

 

 40年以上も前の事で物的証拠が無いからといって、日高さんが発案し、小川よしあきさんが作曲し、保泉君が演出し、私がオーディオ全般担当してかっぱえびせんコマーシャルを作った事実は消す事はできないことを訴えます。

 

 

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関栄三郎氏の陳述書(写し)