「やめられない とまらない」 かっぱえびせん名コピー誕生の知られざる話(4)
カルビーCM録音 関安三郎氏の証言
件の昭和39年大広制作カルビーかっぱえびせんCMで録音を担当した関安三郎(せき・やすさぶろう)氏の証言を、やはり陳述書から拾ってみます。
関氏は大広東京支社放送制作部の音響に易する仕事を、先輩の柳本賢一氏と共に担当していました。
内容は、CM録音の一切、スタジオ管理、外部録音スタジオの折衝など、いわゆる音に関する全てを請け負っておりました。
昭和38年10月に関氏が入社した頃、大広東京支社は銀座七丁目に有り、録音スタジオが銀座三丁目松屋裏に有りました。
社屋は手狭で個人の机も置いて貰えず、別館の録音スタジオがその役割みたいなもので、大広の社員になれたと誇れるものではなかったという事です。
それが翌年の2月乃至3月頃、有楽町ニュートーキョー裏にラクチョウビルというのができ、東京支社がそこに移転となったため放送制作部も広くなり、自分の机を与えられた喜びを関氏は記憶しています。
移転後しばらくして、日高さんがかっぱえびせんの絵コンテを持ってきました。絵コンテを見た関氏は、「なんだ、変なコピー」と反応してしまったと言います。
当時のCMは、映像をナレーションで解説する手法が多かったので、「手がでる 手がでる かっぱえびせん やめられない とまらない かっぱえびせん」と書いてあったのをナレーションとして読んだために、そのような感想となったのでした。
しかし日高さんが制作したCMは、当時NHKで写譜のアルバイトをしていた、友人である小川よしあき氏に作曲してもらったCMソングによるものでした。
小川氏が指揮を執って音楽を鳴らした時、関氏は改めて、目から鱗が落ちる思いとなりました。
それが、その後もカルビーのCMで使われた「やめられない とまらない かっぱえびせん」の旋律であったと関氏は回想しています。
関氏の回想でも、そのCMは半年程だったとなっています。そして、その後は電通が担当したというのも同じなのですが、関氏は音響担当だからか、その時の電通のCMでも「♪ やめられない とまらない かっぱえびせん」の部分だけは引き続き使われていたのを記憶しています。
ただ、その当時はCMソングの権利意識など無いに等しく、制作に費用を出したスポンサーの物という考えだったようです。
実際には、三木鶏郎氏やいずみたく氏など、それ以前からCMソングの音盤を出しているような人もいたのですが、そういう権利意識はCM制作全体に有ったものではなかったのでしょう。
そういうごく一部の例外を除き、CM音楽にCM以外での使い道など考えていなかったのは事実だと思いますし、故に作家意識なども希薄だった事も確かでしょう。
今であれば、いくら肝のコピー・音楽であっても当人たちの許可なく流用するなどは考えられませんが、当時はそういう意識ではなく、日高さん達もそこを格別に問題視しているわけではありません。
(この稿続く)
小川よしあき氏作品
CMソング
- AGFコーヒー(シルビア・クリステル)
- 加ト吉(♪ 加ト吉っちゃん加ト吉っちゃん)
- ハウスジャワカレー
- カシオ計算機 デジタルはカシオ(山口百恵)
- 花王リーゼ(ピーカブー)
- ハウスククレカレー
- ハウスシャービック
- 高島屋百貨店(サーカス)
- サクラ印ハチミツ
CM音楽
ケンタッキーフライドチキン、日本ハム、東芝、日立、
その他2000曲以上
ドラマ
- 岸辺のアルバム
- 沿線地図
- 結婚(昭和57年)
- 大家族
- 徹と由紀子
- 家族の晩餐
等々数十本