昭和テレビ大全集 ぢゃない

昭和のテレビに関する四方山話

「やめられない とまらない」 かっぱえびせん名コピー誕生の知られざる話 証言編(3)

萩勇氏の陳述書より

経歴について

 私は昭和8年11月5日現在満80才

 昭和29年12月 近畿広告ラジオ・テレビ制作係として入社

 昭和35年 (株)大広と社名変更される

 第一企画大阪支社制作局長に転出

 (昭和45年)現在のアサツーDIK(1部上場)

 仙台支社長、大阪支社長、本社人事、総務局長を歴任

 平成4年 TBS系富山チューリップテレビ大阪支社長として入社

 本社取締役 業務局長  平成10年 役員定年にて退職。

 

職種について

1 近畿広告・大広 制作局

 ラジオ番組の制作 ルーム長としてテレビCMの企画・演出

 テレビ番組(CX系)マンガ「ロボタン」の制作プロデューサー

 他 多数


2 第一企画(現アサツーDIK)

 

 大阪支社制作局長としてCMプロデューサー

 テレビ番組(TBS系)代理店担当プロデューサー


3 チューリップテレビ(富山本社)

 大阪支社長 営業統括、本社業務局長

 (編成部、制作部、事業部、営業部を管轄)

 

 当時、広告代理店がテレビマンガ制作をする機能なく全てアニメプロダクション(たつの子プロ他数社)が制作をしていた。

 自社で録音、撮影スタジオを所有していた大広といえども、アニメーションの制作は初めて。

 スタッフは社内、外で構成し、アニメ脚本家は東京、大阪で優秀な作家を登用した。

 下請アニメ作画プロダクションを管理、声優によるアテレコ、放送スケジュール管理、全てが緊張の連続の日々が放送終了まで続く。

 そうした作業期間、東京支社制作部 日高欽治氏が東京サイドの脚本担当。

 辻真先サザエさんの脚本)たかたかし(現・作詞家の大御所)など在京の先生方と交渉。テーマ 作品 原稿チェックなど全てに

 

 

放送業界の創生期に関わる

 民間放送(ラジオ局)が昭和26年、新聞社を母体にして全国に系列誕生する

 NTVを初めとしてテレビ局が後発 発展する

 その時代の真只中に制作マンとして従事し技術指導の先輩もなく、独自に表現技術と発想力を習得して、作品づくりに没頭した。昼夜関係なく熱中する。

 

 

日高氏との関わり

 昭和41年、大広大阪制作局に関西初のテレビマンガ「ロボタン」の制作が決定。

 提供は江崎グリコ(すでに鉄人28号などを提供済のキャリア・スポンサー)

 あのカルビーのカッパえびせん 「♪ ◯△×*1……とまらないカッパエビセン…♪」である。

 作曲は彼の知人の「×××*2氏」 扱いは東京大広で全社的に評判になったと記憶を新たにしている。

 当時の作詩・作曲の制作著作権は、契約書的な書面もなく、相互に口頭で確認し合意していたものである。

 よって、事業確認は、綿足たちのような当時の真実を記憶しているものによって証明できるものと思われる。

 精力的に且つ優秀な作品づくりに貢献してくれた。

 彼の誠実さと旺盛なる発想力が生んだ結果だと今でも思っている。

 それ以来50年近くの付き合いで、東・阪を熱く交流が続いている。

 

 

重要なポイント

 制作マンというクリエーターの発想は、理論構築が整うまでに、ふーッと天から降りてくるようなアイディア(フレーズや曲想など)が湧いてくる。昼夜、場所関係なく。

 当時 日高氏が語っていたのが、

 

(後略)

 

萩氏陳述書の写し

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*1:転載者注)記憶が甦らない語句表現と思われる

*2:転載者注)同上。実際は小川よしあき氏との日高欽治氏証言

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「やめられない とまらない」 かっぱえびせん名コピー誕生の知られざる話 証言編(2)

保泉芳伸氏の陳述書より

カルビー株式会社とのこの度の争いの経緯について

1 私が関わった発端

 2010年6月10日ころのことでした、40年ほど前に広告代理店株式会社大広に勤務していた時の同僚のオーディオディレクターだった関安三郎さんから電話があり、「欽ちゃん(日高欽治さんのこと)ってカルビーの“かっぱえびせん”のコマーシャルつくってたよねえ」と言われたのが、私がこの問題に関がる発端でした。

 日高欽治さんは㈱大広での2年先輩の社員でした。


 私は関さんからの電話の問いに「ああ、あれは日高さんの絵コンテで、日高さんが忙しくて現場で撮影やってる暇がないからといって、急遽私が助っ人で演出から仕上げまでやった仕事だよ、どうしたの今頃そんな話を」と、訝しげに問い返しました。
 「ああそうか、あなたが演出したんだっけ、そうだ思い出した、だったら『やめられない、とまらない、かっぱえびせん』は欽ちゃんのコピーだよね」
 「どうして」
 「いや、何か『やめられない、とまらない、かっぱえびせん』のキャッチコピーは、電通でつくったとか、伊藤アキラさんがつくったとか、栗本慎一郎がつくったとか、そんな記事が週刊誌に出ているらしいよ」との、関さんの話でした。


 しかも日高さんが、「私が原作者です」とカルビーに名乗り出たけど、お客様相談室のA室長から、「お話を伺うと、日高さんの話はほんとうのように思えますが、最近、私が原作者ですと名乗りでる方が幾人か見えられたので、日高さんの話にハイそうですかと言えないのです。なにか確たる証拠になるようなものはありませんか」と言われたとのことでした。
 その背景には、2007年に音楽プロダクションのアストロミュージックが、『やめられないとまらない、かっぱえびせん』のコピーの入ったCMソングは、昭和40年ころ当社所属の作詞家・伊藤アキラと作曲家・筒井広志がつくったので、今もCMソングの一部が使われているので、使用料を支払ってほしいと言われ、契約をしてあるらしいということもあるようです。

 

 関さんから電話があった翌日三人で出会い、私は当時のことを鮮明に記憶していましたので、当時の様子を思い出すままに話ました。
 なぜ私がそのように当時のことを鮮明に覚えているかというと、私にとって”かっぱえびせん”のCM制作は特別な仕事だったので、私の心に強く印象に残っていたのだろうと思います。

 私は今年で72歳、年相応に記憶力も衰えていますが、なぜか”かっぱえびせん”のCMのことは、当時の仕事の様子などが心に映像として残っているから不思議です。

 

 というのも、当時の大広の放送制作部のシステムとしては、一人ひとりが担当スポンサーを持ち、自分で企画立案し、自分で直接クライアントと交渉してCMをつくるという、一人ひとりが独立したプロデューサー兼演出家でした。
 私も㈱白元を担当し、パラゾールやノンスメルなどのCMを、ニヶ月に一本くらいの割りで制作していましたので忙しかったのですが、それ以上に忙しかったのは日高さんでした。

 マルマンのCMや、特にビクターのラジオ番組を担当していたので週単位で追われ、じつに忙しく働いていました。もちろん日高さんばかりでなく他の放送制作部員の人たちも忙しく働いていました。


 そこへ広島営業所から、“かっぱえびせん”の15秒のCM制作の依頼が入り、日高さんに担当が割り振られたのですが、日高さんは自分の担当しているレギュラーの仕事で忙しく一人でやりきれないので、私に「手伝ってほしい」と頼まれたのです。
 当時の私は、まだ未熟な駆け出しの演出家で、自分の企画したものを自分で演出するのがやっとくらいの力量しかありませんでしたので、他人の企画した絵コンテを基に演出していくことは、かなり高いハードルでした。
 それだけに今でも心の中に当時のことが在り在りと残っているのかも知れません。

 


2 「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」のキャッチコピーが出来た由来

 日高さんの絵コンテは大変にユニークだったので、どうしてこのアイディアを思いついたのと、日高さんにたずねたら、“かっぱえびせん”を食べながらなかなかいいアイディアが出なくて困って、一袋食べてしまい、もっと食べたいと二袋目に手が伸びたときに、思わず「やめられない、とまらない」という言葉が思い浮かんだんだよ、と裏話を話してくれました。
 それに制作費が少なくて、つくるのにずいぶん苦労させられましたので、今でも不思議にそのことは覚えています。


 それと”かっぱえびせん”の生みの親の松尾社長さんが、CMの完成の日に広島から上京して銀座の松屋の裏にあった大広の録音スタジオに来られて、CMの完成を大変に歓びながら、私たちとスタジオの中で“かっぱえびせん”を食べながら談笑した様子などを、ありありと当時のようすが思い浮かべられるように話しました。
 また関さんも私の話を聞いているうちに、当時のことを思い出して同様に、「最初絵コンテを見たときに、まさか歌にするとは思っていなかったので、なんだ変なコピーとけなしたんだよ」と言っていました。

 


3 カルピーの伊藤社長から、日高さんが原作者だと認められた日

 そんな話をしているうちに、保泉の話ならカルビーでも信憑性をもって聞いてくれるだろうから、一緒に行ってくれないかということで、日を改めて三人でカルビー株式会社の「お客様相談室」のA室長のとこへ話しに行きました。
 A氏は私の話を聞き、話の内容に信憑性を感じ、後日社長にも会わせると約束してくれました。

 

 2011年6月29日、伊藤秀二社長と会う機会を得て、社長の他、相談室長のA氏と宣伝課長のH氏も同席して、私たち三人は、“かっぱえびせん”のCMソングが誕生した経緯を在りのままに話をしました。
 特に、社長との談笑で、明日宇都宮へ行くというので、「どうしていくのですか」と尋ねたら、“かっぱえびせん”は空気を運んでいるようなのものだから、広島から東京までの運賃がもったいないから、宇都宮の工場をつくるので、その打ち合わせに行くというような話をしまたので、そのような話は、当事者しか知らない話でしょうから、大変に信憑性をもって受け取られました。

 伊藤社長も私たちの話を信頼してくれて、「カルビーが今日こうしてあるのも、創業時代に日高さんたちが力を貸してくださったからですねえ」と喜んでくださいました。日高さんを「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」のコピーの原作者として認めてもらえたのです。

 


4 金銭的な要求などの意思なかった日高さん。

 日高さんはそれだけでよかったのです。
 原作者としてカルビーに認めてもらえただけでよかったのです。
 決して原作者として金銭的な要求をする気はなかったのです、「ただ週刊誌などに、日高さん以外の人が『やめられない、とまらない、かっぱえびせん』のキャッチコピーをつくったかのような記事が載っているので、御社の社内報に、今まで作者不詳だった『やめられない、とまらない、かっぱえびせん』のコピーの作者が見つかりました。そんな記事でも載せてくれませんか、そうすれば御社の社員も創業時の歴史を知ることもできるし、日高さんはその記事のコピーを持って、疑念を抱いている友人や知人に、カルビーでもこうして認めてもらった、と、クリエーターの誇りを取り戻せるのでお願いします」と、私からA氏にお願いしたのです。

 A氏にも異論はなく、「どんなふうな内容にしたらいいか、何か見本になるような文章を書いてくれませんか」と、内々に頼まれましたので、次のような文章を参考に書きました。

 

かっぱえびせん今昔物語』

(社内報記者の署名入り記事)

 

 私はある日、偶然にも「かっぱえびせん」のコマーシャルを初めてつくったという人に出会いました。「かっぱえびせん」が発売されてから40年以上経ちますから、その人は70歳を越えていました。
 その人は若かりし頃、広告代理店・株式会社大広の制作部で、テレビのコマーシャルの草分け時代に活躍した人です。名前は日高欽治さん(72歳)です。


 日高さんが“かっぱえびせん”と出会ったのが、昭和39年、当社がニューヨーク「菓子国際見本市」でスナック菓子として好評を博し、自信を持った創業の松尾孝社長が、日本でも大々的に売り出そうと、広島から東京に進出する決意を固め、テレビで宣伝するために大広にコマーシャルの制作を依頼したことから始まりです。


 日高さんはかっぱえびせん”を前にして、どんなコマーシャルをつくろうかと、ぽりぽりと”かっぱえびせん”を食べながら、必死にアイデアをひねり出そうともがいていました。

 なかなか良いアイデアが出ないうちに、一袋食べてしまいました。とても後を引く味で、もう一袋食べたくなり手を伸ばしたときに閃いたのです。
 「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」。このフレーズでした。
 もうこうなればあとは芋ずる式にアイデアは出てきます。あっという間に、'

 

「思わず手が出る、

 手が出る、
 手が出る、
 かっぱえびせん


 やめられない、
 とまらない、
 かっぱえびせん


 と15秒間のコマーシャルの案が出来上がったそうです。

 そして日高さんの友人の作曲家・小川よしあきさんが、今、私たちが口ずさんでいる有名なメロデーを、出来上がった15秒の映像に、CMソングにして音楽を付けたのです。
 松尾社長も最後の仕上げの日に、広島から駆けつけ録音スタジオに入り、仕上がったばかりのコマーシャルを見て、大変に喜んでいたそうです。


 ディレクターの日高さんが、“かっぱえびせん”を食べての実体験から出た言魂のようなコピーだからこそ、40年以上経った今でも私たちの心に響いてくるのだなあと、私もうれしくなりました。
 日高さんが「カルビーさんもあの頃はまだ広島の小さな菓子工場だったけど、今では一流企業に成長している姿を見ると、草創期にその一役を担わせていただいたことを、誇りに思っています」と言った言葉が印象的でした。


 私が入社したときはもう大きな会社でした。でもこれまで大きくしてくれた、松尾社長はじめ多くの先輩の皆様、そして外から支えてくれた人がいたから今の私たちがいると思うと、この環境に安住してはいられないという気になりました。
 40年以上も親しまれる「やめられない、とまらない、かっぱえび世ん」というコマーシャルを作ってくださった日高欽治さん、ほんとうにありがとうございました。

 

(◯◯記)


 このような文章を参考になればと思って渡しておきましたが、後日、日高さんは宣伝部のH課長と会い、社内報に載せるための顔写真を撮ってもらったから、次号に載るのではないか言っていました。
 しかし9月に入っても、日高さんのところへは何の連絡もありませんでした。そこで日高さんがH課長に問い合わせたところ、H課長より文書で「社内の関係部署と協議の結果、日高さんのご要望には応じられません」といった趣旨の返事が戻ってきました。

 

(中略)

 

 一体何を言いたいのでしょうか。どんな法律を駆使しようと、私たちが昭和39年に”かっぱえびせん”のコマーシャルを作った事実を否定することはできません。担当プロデューサーと映像ディレクターとオーデオディレクターの三人が揃っているのに、それを完全に否定し、そのような事実はなかったと何を根拠に言えるのでしょうか。


 百歩ゆずって、コマーシャルはつくったかもしれないが、『やめられない、とまらない、かっぱえびせん』のコピーを日高さんはつくらなかった。という視点に立ってみましょう。
 つくったこともない人間が後年「あれは俺がつくったんだ」と言いふらせるでしょうか。つくったこともない人間が当時の絵コンテを再現できるでしょうか。つくったこともない人間が「なんだ変なコピー」とけなしたんだ、などと思い出せるでしょうか。
 もしつくった事実がないのにそれだけのことが言えたら、それは詐欺師の集団です。
 私たちは何を欺こうとしたのでしょうか。


 カルビーでは今後とも事実だけしか公表しないということですから、私たちの存在そのものを否定されたわけです。
 全国放送で私たちのことはなかったことと、否定されたわけですから、私たちにとっては大変な屈辱です。
 私たちは最初から、著作権を楯に金銭を要求したわけでもなく、ただ社内報に日高さんの記事を載せてくださりさえすれば、「シャン、シャン、シャン」で終わったのです。

 

(後略)

 

保泉氏陳述書の写し
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「やめられない とまらない」 かっぱえびせん名コピー誕生の知られざる話 証言編(1)

はじめに

 かなり間が空きましたが、その間も日高欽治氏は様々な方策でカルビーと折衝を精力的に続けていたものの、遂に先方からの誠意有る回答を得る事が出来ませんでした。

 ここに至り、氏は、当時を知る大広関係者等の陳述書の公開を決断されました。

 この事は、このブログを開設した時から当方が助言していたのですが(そもそも、そうした本来なら内々の資料を公開するために、わざわざ別ブログを開設したわけです)、当時の日高さんは、カルビーには恩義が有るとして、なるべく穏便な形でやりたいと、受け入れませんでした。

 

 それから一年余。日高氏の決断を受けまして、ここに、本来はカルビー側だけに提示されていた内々の証言を公開して参ります。

 確かに、カルビーが要求するような物的証拠ではないかもしれませんが、これだけの社会的信用の有る方々が言っている証言です。

 皆様方に於かれましては、よく内容を吟味して戴きますようお願い申し上げます。

 

 日高欽治氏の大広在籍証明書の写し

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関安三郎氏の陳述書より

かっぱえびせんのコマーシャル誕生の経緯について

1 私の当時の役割り

 私は昭和38年10月、株式会社大広に嘱託で入社しました。録音技術を持っていましたので、東京支社の放送制作部のオーディオに関する仕事を、先輩社員の柳本賢一さんと二人で引き受けていました。
 放送制作部員のつくるCMの録音の一切、スタジオ管理、外部の録音スタジオの折衝など、音に関することの一切でした。


 私が㈱大広に入杜したとき東京支社は銀座7丁目にありました。そして録音スタジオが銀座3丁目の松屋裏にありました。
 銀座4丁目の社屋は手狭で、私と柳本さんは放送制作部の部屋にデスクを置いてもらえず、別館の録音スタジオの中がデスクのようなものでした。
 気分としては録音スタジオのスタッフみたいで、大広の社員になれたという誇らしい気分ではありませんでした。
 それが翌年の2月か3月ころだったと思いますが、有楽町のニュートウキョーの裏に、ラクチョウビルという新築のビルに東京支社が移転することになり、放送制作部の都屋も広くなったので、私も柳本さんもデスクを与えられました。
 仕事場はいつも銀座の録音スタジオですが、自分のデスクが放送制作部の中にあることはたいへんにうれしいものでした。


 移転後しぱらくして落ち着いたころ、日高さんがカルビーの”かっぱえびせん”のCMの絵コンテを持ってきました。それが録音スタジオの中でなく、放送制作部の新しい自分のデスクでもらったので、妙に印象に残っています。
 そのとき私は絵コンテを見て、「なんだ、変なコピー」とけなしました。
 当時のコマーシャルは、映像をナレーションで解説する手法が多く、日高さんの持ってきた絵コンテの一コマ一コマに感覚的に、「手がでる、手がでる、かっぱえびせん。やめられない、とまらない、かっぱえびせん」と書いてあっただけだったので、ナレーション風にして読んだら、何か違和感を感じて、それで「なんだ、変なコピー」と言ってけなしたのだと思います。


 日高さんは当時NHKで写譜のアルバイトをしていた友人の小川よしあきさんに作曲を依頼して、あの有名なCMソングができたのです。わたしも「変なコピー」とけなしましたが、録音スタジオで小川よしあきさんが指揮をとって音楽を鳴らしたときに、変なコピーどころではないと思い、目からうろこが落ちる思いでした。
 それが今でもカルビーのCMで使われている「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」のメロデーでした。

 


2 解せない頑なな法務部の姿勢?

  2010年6月、日高さんから久しぷりに電話がかかってきて「かっぱえびせんのコマーシャルをつくったのはボクだよねえ、覚えてるかい」と言われたので、前述のような話をしました。

 2~3日して二人でカルビーのお客様相談室長のA氏のところへ行って、日高さんが間違いなくかっぱえびせんのコマーシャルをつくったことを話しました。

 A氏は、「お話はまちがいないと思いますが、なにか物証になるようなものはありませんか」と言われましたが、なにしろ40年以上の前のことですからまずそんなものは無いと思いました。
 そこで、ふと同僚の保泉芳伸君に聞いてみようと思い電話をしたら「何を言っているの、あのコマーシャルは日高さんが忙しくて自分でつくれないので、ポクが絵コンテをもらって助っ人でつくったんだよ」という返事がもどってきました。
 私は彼がつくったことをすっかり忘れていました。

 

 後日、私と日高さんと保泉君の三人で会い、当時の話を保泉君に聞きましたら、じつによく当時のことを覚えていて、私もずいぶん思い出を引き出されました。
 彼の話ならA氏も信頼してくれるかも知れないと、また三人でA氏のところへ行って保泉君に話してもらいました。
 その話に、日高さんがかっぱえびせんのコマーシャルを最初につくった人だとA氏は確信を持ったようで、6月29日に社員と会って話す機会をつくってくれました。
 社長も私たちの話を信頼してくれて、日高さんがあの有名な「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」の原作者であることを認めてくれました。
 その後、そのことをカルビーの社内報に載せるからと、日高さんは顔写真を取ってもらって喜んでいました。

 

 しかし一ヶ月以上経っても何の連絡がないことに日高さんはしびれを切らして、宣伝部長のH氏に連絡したら、「会社内の関係部署と協議の結果、日高さんの要望にはお応えできません」という返事がきました。
 「関係部署との協議」ということに不審をいだいた保泉君がA氏に尋ねたら、「日高さんが、やめられない、とまらない、かっぱえびせんの原作者であることを社内報に載せてはならないと、法務部長が止めてしまった」とのことのようでした。
 私はその話を闘いて、「ああっ、アストロミュージックとの関係で法務都は止めたな」と思いました。

 

 と言うのは、大広がカルビーのコマーシャルを昭和39年にテレビで流したのは半年くらいで、あとは電通に扱いを持っていかれて日高さんのつくったCFは使えなくなって電通は新しいCFをつくり、放映していました。
 ただそのときに「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」の部分だけは、私たちのつくったCMソングをそのまま使っていました。
 当時の私たちの業界の風土としては、CMソングは制作費を出したスポンサーが自由に使えるもので、著作権が広告代理店やCMの制作会社や個人にあるなどといったことを考える人もいなく、スポンサーがどう使おうが勝手という考えがまかり通っていました。

 その考えに異を唱えたのが、作曲家の小林亜星氏で、日本著作権協会の理事としてはたらき、CMソングにも著作権があると認めさせた旗頭です。

 

 その小林亜星氏が代表を務める「アストロミュージック」でつくられたCMソングを、現在でも使っている企業から、使用料を支払ってもらっていると聞いていました。代表的なのは日立の「この樹なんの樹ふしぎな樹」というイメージソングです。

 私は契約内容は知りませんが、法務部はその事があるから日高さんを原作者だと認められないと言いだしたのだと思いました。

 昭和40年ころ電通で作ったのは、日高さんが大広で作った後で、15秒のCMから30秒のCMに作りかえた時のもので、そのCMの著作権を認めたから、日高さんの著作権が消滅することではないと思うのに、カルビーの法務部では何を考えているのだろうと、不審に思いました。

 その後、何度かA氏やH氏に日高さんの事を社内報に載せてくれるように、保泉君と話し合いに行きましたが、法務部が認めないという事で、話が前に進みませんでした。

 

(中略)

 

 40年以上も前の事で物的証拠が無いからといって、日高さんが発案し、小川よしあきさんが作曲し、保泉君が演出し、私がオーディオ全般担当してかっぱえびせんコマーシャルを作った事実は消す事はできないことを訴えます。

 

 

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関栄三郎氏の陳述書(写し)

 

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「やめられない とまらない」 かっぱえびせん名コピー誕生の知られざる話(番外1) カルビーの見解について

 この稿も4まで書きましたところで、ワタクシは一方的な書き物に些かの懸念も有ったので、カルビーに対して質問書を送りました。

 日付は4月18日で、一ヶ月程度の猶予を設け、当方の質問への回答と意見を求め、返信が無い場合はその旨を書かせて戴きますという内容でした。

 質問は以下の4点でした。

 

  1.  貴社としましては、昭和39年に大広が宣伝を担当したという認識なり記録、伝承はお有りでしょうか。
  2.  日高様が名乗られて後、貴社は度々件の惹句や歌の発祥に関して独自の見解描写を各媒体でされていらっしゃいますが(例:日本テレビDON等)、それは貴社内、電通、アストロミュージック等の関係各社に聞き取り等を行っての事だったのでしょうか。
     件の惹句発祥に関する、何か貴社なりの確たる見解をお持ちなのでしょうか。
  3.  当方で上記記事を書くような事につきましての、ご意見等がございましたら伺いたいです。
  4.  このやりとりを上記サイトにて公開する事に異議はございませんでしょうか。ございます場合は、公開用のご意見を伺えればと思います。およそ一ヶ月程度の様子を見まして、何も返信がございません場合は、この文面をそのまま公開し、返信が無かった旨を公開させて戴きます。返信は末尾に御座いますメールアドレス宛でも結構でございます。

 

 「上記記事」というのは、当ブログと、本家の私的昭和テレビ大全集に於けるカルビーかっぱえびせんの稿の事です。

かっぱえびせん (1964) - 私的 昭和テレビ大全集

 メールアドレスは末尾に記載した他に、ブログURLとQRコード、本名、住所、電話番号、メールアドレスを記載した名刺も同封しました。

 日高さんにはカルビー宛に送付後に内容をPDFで送り、了解を取り付けています。

 

 該当部署がよくわからなかったので、もしかしたら違う部署に送ってしまったのかもしれません。

 ワタクシは底辺労働に従事する学の無い人間ですから、大企業様の理解する書式から多少は外れた内容が、何か有ったかもしれません。

 その場合はその旨を、また、返信する必要を認めない場合もその旨を、知らせてくれるのがワタクシの中での大企業の常識でした。

 ですがカルビーは、完全に無視しました。勿論、記録郵便で送っておりますし記録は残っております。

 

 実は日高さん側がワタクシに見せて下さった資料の中には、カルビー側の木で鼻を括ったような応対が見て取れ、それに対してこれまで紹介しましたような日高さん側の証言者の人が、憤怒の姿勢を見せてもいるのです。

 ワタクシはそのような部分を相手側の言い分も無しに公開するのはためらわれましたので、先に言い分を伺おうとしたのですが、結果としましては、ワタクシまで非常に不愉快な応対をされました。

 返信する気は無いなら無いと回答するだけでも整うと思いますし、通常、社会的にはそのような最低限の応対はするものでしょう。

 これが朝日新聞相手だったら、間違い無くカルビーは完全無視などせず、何も申し上げる事は有りませんくらいの回答は必ずするはずです。

 要するに相手を、ワタクシを見下しているのだと判断します。

 

 事ここに至りまして、カルビー側の世間的心証を悪くしかねない日高さん側とのやり取りも、ワタクシは公開しようかと考えています。

 日高さんは、カルビーには恩も有るし、今後の事も有るからと、そうした行動には否定的です。

 ワタクシとしましては、日高さんと少し相談しながらとはなりますが、そのような姿勢でこれから行くしか無いと思っております。

 

 これはワタクシ一人の推測なのですが、恐らくカルビーは、電通を慮っているのでしょう。

 大広は、実際に手掛けていたとしても半年かそこら。

 対して電通は数十年ですし、実際に売り上げが激増したのも電通となってからです。

 その電通の成果の根本を横取りされては申し訳無いくらいの感覚なのかもしれません。

 それならそれで、内々にでも認めてくれれば間違い無く日高さんは納得していたはずですし、実際に両者が話し合っていた当初はそのような社内報次元での話で、日高さんはそれを大層喜んでいたのです。

 その時点では、日高さんは著作権云々など全く眼中に無く、あくまでも発案者として認めて欲しいというだけの話だったのです。

 この辺は、後で証言も掲載していきたいと思います。

 

 ですが事ここに至り、ワタクシは日高さんに、もう著作権で争った方が早いかもしれませんねと申しました。

 カルビーは、実力が有る存在しか顧みないのだろうと思います。

 初代社長の頃はそうではなかったのでしょうが、現在はかなり異質な機構改革が進んでいるように、BSフジの番組でやっておりました。

 売り上げは激増したのでしょうが、構造的には従来の日本企業の形とはかなり異なり、良く言えば非常に先進的になっています。

 ですからワタクシの質問書も、きちんと検討されてはいないのでしょう。

 

 ともかく、日高さんもワタクシの言葉が契機というわけではなく、以前から検討してらしたようで、著作隣接権であたってみるようなお話が出て来ました。

 部外者のワタクシも、日高さんたちも、誰一人望んでいなかった法的な争いになっていくかもしれません。

 ここでも、日高さんの許可を取りながら、経緯をお知らせしていきたいと思います。

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「やめられない とまらない」 かっぱえびせん名コピー誕生の知られざる話(4)

カルビーCM録音 関安三郎氏の証言

  件の昭和39年大広制作カルビーかっぱえびせんCMで録音を担当した関安三郎(せき・やすさぶろう)氏の証言を、やはり陳述書から拾ってみます。

 関氏は大広東京支社放送制作部の音響に易する仕事を、先輩の柳本賢一氏と共に担当していました。

 内容は、CM録音の一切、スタジオ管理、外部録音スタジオの折衝など、いわゆる音に関する全てを請け負っておりました。

 昭和38年10月に関氏が入社した頃、大広東京支社は銀座七丁目に有り、録音スタジオが銀座三丁目松屋裏に有りました。

 社屋は手狭で個人の机も置いて貰えず、別館の録音スタジオがその役割みたいなもので、大広の社員になれたと誇れるものではなかったという事です。

 それが翌年の2月乃至3月頃、有楽町ニュートーキョー裏にラクチョウビルというのができ、東京支社がそこに移転となったため放送制作部も広くなり、自分の机を与えられた喜びを関氏は記憶しています。

 

 移転後しばらくして、日高さんがかっぱえびせんの絵コンテを持ってきました。絵コンテを見た関氏は、「なんだ、変なコピー」と反応してしまったと言います。

 当時のCMは、映像をナレーションで解説する手法が多かったので、「手がでる 手がでる かっぱえびせん やめられない とまらない かっぱえびせん」と書いてあったのをナレーションとして読んだために、そのような感想となったのでした。

 しかし日高さんが制作したCMは、当時NHKで写譜のアルバイトをしていた、友人である小川よしあき氏に作曲してもらったCMソングによるものでした。

 小川氏が指揮を執って音楽を鳴らした時、関氏は改めて、目から鱗が落ちる思いとなりました。

 それが、その後もカルビーのCMで使われた「やめられない とまらない かっぱえびせん」の旋律であったと関氏は回想しています。

 

 関氏の回想でも、そのCMは半年程だったとなっています。そして、その後は電通が担当したというのも同じなのですが、関氏は音響担当だからか、その時の電通のCMでも「♪ やめられない とまらない かっぱえびせん」の部分だけは引き続き使われていたのを記憶しています。

 ただ、その当時はCMソングの権利意識など無いに等しく、制作に費用を出したスポンサーの物という考えだったようです。

 実際には、三木鶏郎氏やいずみたく氏など、それ以前からCMソングの音盤を出しているような人もいたのですが、そういう権利意識はCM制作全体に有ったものではなかったのでしょう。

 そういうごく一部の例外を除き、CM音楽にCM以外での使い道など考えていなかったのは事実だと思いますし、故に作家意識なども希薄だった事も確かでしょう。

 今であれば、いくら肝のコピー・音楽であっても当人たちの許可なく流用するなどは考えられませんが、当時はそういう意識ではなく、日高さん達もそこを格別に問題視しているわけではありません。

 

(この稿続く)

 

小川よしあき氏作品

CMソング

  • AGFコーヒー(シルビア・クリステル)
  • 加ト吉(♪ 加ト吉っちゃん加ト吉っちゃん)
  • ハウスジャワカレー
  • カシオ計算機 デジタルはカシオ(山口百恵
  • 花王リーゼ(ピーカブー)
  • ハウスククレカレー
  • ハウスシャービック
  • 高島屋百貨店(サーカス)
  • サクラ印ハチミツ

 

CM音楽

 トヨタ、日産、スズキ、資生堂花王、ポーラ、カネボウ

 ネスレ、AGF、明星、サンヨー食品ナビスコリッツ、

 ケンタッキーフライドチキン日本ハム東芝、日立、

 東京ガス理想科学住友銀行、全国信用金庫

 その他2000曲以上

 

ドラマ

 等々数十本

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